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艨艟ノ棲処 BLOG(続)

もうどうのすみかBLOG版(続)。ハヤブサとKDXで暮らす日々の綴方。 それから蟲と飛行機と

   

納古山、猿啄展望台と明王山

2021年2月20日

川辺町の納古山へ。登り中級コース1時間、山頂で1時間、下り初心者コースで1時間。中級コースは急だし岩場もあるので下りではちょっと手ごわい。初心者コースは林道歩きが長くて飽きてしまうので注意。


この日は、2月にしては気温も高く、人も多かった。頂上のベンチは満員。最近のマイブーム、山頂でお湯を沸かしての昼食。ただカップラーメンを食べるだけだが、これがなかなかよろしい。


下山してまだ時間があったので、坂祝の猿啄(さるはみ)展望台へ。所要時間約40分。


猿啄から、ついでに関市の明王山まで縦走、といっても大した距離ではない。往復1時間。


一日中歩いていたのでやや筋肉痛、というのは内緒である。
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中野の渡し

2020年10月24日
ここのところ渡船づいている(笑)。先日小紅の渡しへ行ったばかりだが、今回は岐阜県羽島市と愛知県一宮市西中野を、木曽川を越えて結ぶ中野の渡し(西中野渡船場)にやってきた。
小紅の渡しと違って、こちらはすぐ上流に新濃尾大橋が建設中であり、数年後にはなくなってしまうらしい。
早速だが羽島側の船着きに到着。今日のお供はKDX。さすがに羽島まで自転車はかなり厳しい。船着き場には広い駐車場があるので、車で来ても問題なしである。


写真中央の、川面に出っ張った部分が桟橋(?)。画面左手奥の方が西中野になる。


中野の渡しは対岸が詰所になっているので、こちらから渡船を呼ぶときは、自分で旗を掲げることになっている。旗は下側のタイコリールを回して掲げるのだが、ところがこれ、錆びていて少々固かった。


旗を揚げると間髪を入れず渡船がやってきた!と一瞬驚いたが、折しもタイミングよく対岸から自転車での乗客が一人。ここも小紅の渡しと同じく、自転車可である。下船せずの折り返しご法度、も同様。観光用ではなく、あくまでも道路の一部なのだ。


早速乗船、出港。川面を吹く風が気持ちいのも前回同様。船は第五中野丸。


一宮側の渡船場注意書き。(労働基準法に則り?)休憩時間があるので、利用する場合は最新情報を確認してから。自転車可、とは特に書いていない。


規則通り一旦下船したとはいえ、すぐにとって返すのも気まずいのでしばらく集落の中をぶらぶら散策。田んぼの中には直径5cmくらいの大きなタニシがいた。それから秋桜(たぶん)。


羽島側へ戻った後は木曽川沿いに北上しつつ、時々河原に降りて遊んだり、海を渡ったり。これがまた、なかなか楽しい。オフロード車が手放せない所以である。


帰宅後、友人に呼び出されてチャ―ハニング。結局これが本日の〆となった。

岐阜小紅の渡し

2020年10月3日

かつて、と言ってもそう昔の話ではない。平成の半ばまでは長良川沿いに何ヵ所か、渡しがあったのである。何時か行こうと思っていはいたのだが、そこへ至るまでの道のりが億劫で、延ばし延ばしにしているうちに、今は岐阜市の鏡島弘法とその対岸を渡す小紅の渡しだけになってしまった。

そろそろ無くなるのではないか?という真偽不明な風の噂もあり、重い腰をようやく上げたのが昨年の10月である。

渡船は、当然ながら車やバイクは積めない、駐車場も無いので自転車の出番である。


ちょうどいい気温の中、1時間ほどで長良川右岸、鏡島弘法対岸の小紅の渡しに到着。説明書きによると、小紅の渡しが史実に登場するのは元禄5年(1692年)だそうである。以来300百年以上この地にあり、現在は一般県道文珠茶屋新田線の一部である。なお、渡しは県道の一部であり遊覧船ではないため、対岸に着いたら必ず降りる旨の注意書きもある。道路の一部なので、渡し賃は無料。


土手の上から船着きを見る。急勾配の階段、長良川を挟んで対岸の船着きが見えている。船はまだ画面の右手にある。人以外の乗船の可否は書かれていなかったが、自転車は可。原付は、この勾配を考えると無理だろう。


渡船。船外機が付いている。最後の2、3段まで階段になっていて、自転車を乗せるには持ち上げなければならない。持ち上げた自転車が揺れる船への狙いがなかなか定まらず、失敗すれば人馬諸共川の中、である。


ここまで汗をかきかき自転車を漕いできたので、川面を渡る風が心地よい。結構、ご満悦である。


程無く、対岸へ到達。船外機が付いてい入るが、船着きへ寄せる時は竿だ。


元来た方を振り返る。乗っていたのは5分、ない。


ここからはサイクリング。まずは対岸の鏡島弘法見学。初めて来た。


忠魂碑。希典(まれすけ)書、とあるのは日露戦争で203高地を攻めた第三軍司令官陸軍大将乃木希典のことである。明治天皇崩御に殉死したのは有名な話だ。


長良川左岸のサイクリングロード(少々荒れていて、所々痕跡が途絶える?)を忠節橋まで走ってから、市内へ。ちょうどいい時分になったので昼食、老舗の太田屋本店。天ぷらうどんを食べたかったのだが、仕入れ先の天ぷら屋が廃業(天ぷらは外注らしい)してしまったとのことで、すうどん300円。レトロな雰囲気がなかなかだが、圧巻は入口左手にある煤けた岡持ち多数。鈍い光沢が歴史を感じさせた。行くことがあったら、ぜひ確かめてみてほしい。


この後は柳ヶ瀬をブラブラ。高島屋に新しく入った大垣書店(大垣が本店かと思ったら、社長が大垣さんで、本店は京都だった)へ行ってみたり。おやつにツバメヤでもなかアイス。


食べたカロリーを消費しながら(笑)ゆるゆると帰宅。久々のサイクリング、5時間でした。たまには自転車もいいもんだ。

KDX利賀の林道ツーリング

2020年9月21日

富山県の南西部、岐阜県と境を接する南砺市利賀村は標高1000mを越える山に囲まれている。村内であっても南北に走る険しい尾根がその交流を妨げ、辛うじて東西を穿つ楢尾トンネルがあるのみである。人口は1000人未満。
さて、そのような山深い利賀村、それから水無湖へと走る県道34号、そして水無湖から牛首峠を経て白川へ至る牛首林道周辺は、地図で見ているだけでも秘境感が漂って来てい、林道好きとしては、前々から一度は走ってみたかったのである。
自宅からは距離があるので、数年前までは存在した水無湖湖畔のキャンプ場をベースとして走破、とも考えたのだが、諸々の都合と、とりもなおさず無人のキャンプ場では熊が怖い。それやこれやで自宅から距離はあるが、日帰りで行ってみることにした。今回の相棒はKDX。

41号を北上、高山市でバイパスが通れない(自動車専用道路。KDXは125なので原付)というハプニングがあったものの、飛騨古川で給油(1回目)、41号から471号へ分岐して、さらに360号との分岐が今日のスタートライン(36.306416, 137.092095)である。


まずは酷道を堪能すべく、北上する。路面は舗装済だが、所々剥がれたアスファルトが小さい落石の如く転がっていて、油断はできない。加えて、意外と交通量多い。それも、生活道路として走っているのではなく、明らかに酷道マニアである。KDXなので追いつかれることは無いが、ブラインドコーナーから考え無しに飛び出してくる対向車には閉口した。とりあえず、峠のお地蔵様を通過。


本来の目的は峠のすぐ先で分岐している県道34号なのだが、ひとまず北へ。所々に現れる標識は曲がっていたり無かったり。全て冬季の積雪によるものだろう。


峠を越えて、相変わらず酷い道を堪能しながら、富山県側の杉ヶ平キャンプ場下の施設へ。この辺でゲートがあり、道は一応酷道を脱するので、ここでUターン。再び岐阜県側へ南下する。(写真奥が岐阜県側)


富山と岐阜のちょうど県境のところ、ゲートのあるところで東側に抜けるダートがあったので、行ってみた。最初の方は路肩の両側から草が覆いかぶさり、軽トラでも厳しいか?という状態だったが、しばらく行くとややましに。でも、ずっとダート。写真は奥が岐阜県側、問題のダートはゲートの手前、左側から入っていく。その下の写真は入口辺りのダート。
調子に乗ってダートを走っていたので、途中の写真は無い(今回は全体的に写真少な目)。ダートは2、3km、万波神社(36.383582, 137.115496)の手前まで。その先は、舗装路?何となく細くて面白そうな道だったが、今回は見送り。Uターンして471号へ戻る。さらに南下して、先日の金沢旅行(その5)で下見した県道34号との分岐点へ。本日のミッションの一つは、まずこの県道を水無湖まで抜けることだ。


ところが。どれほども行かないうちにミッションインポッシブル(笑)。写真ではわからないが、向こう側の腕組みした親父がすごい形相でこちらを睨んでいる。さっさと写真を撮ったら、ほうほうの体でUターン。


県道34号を抜けるためには、もう一度471号を北上して472号との分岐の辺りから再び南下、利賀村百瀬から林道を下って行くしかないのだが、百瀬まで約30km。そこから先のことを考えると百瀬あたりで燃料を補給しておきたい。

事前情報では百瀬にJAのスタンドがあったのだが、本日休み。仕方が無いので、山一つ西側、利賀村坂上のスタンドまでさらに10kmほど走る。ここが開いていなければ万事休す、ミッションアボートで156号側へ抜け給油、そのまま早目の帰宅しかなかったのだが、幸いにも開いていた。本日2回目の給油だが、結果として正解。ここで給油しておかなかったら、山の中でガス欠必死だった。全くKDXの航続距離の短さといったら。

給油後は阪神タイガースの家を横目で見ながら百瀬へ戻る。ネットでちらっと調べたけど何も出てこなかった。ただの熱狂的ファンだろうか。


百瀬から下り、ここらから(36.39718, 137.0229)がいよいよ本番。軽トラ1台がやっとの道を進んでいく。とはいえ、離合ヶ所もほぼ無いので、車では諦めた方がいい。


金剛堂山登山口の三叉路(36.39718, 137.0229)へ出てきた。


googleマップでは三叉路になっているが、実際にはもう1本、登山道があり四叉路になっている。画面左の道がやってきた百瀬方面、右が登山道であり、方角は北西を向いている。轍があるが、こちらの探索は次回回し(あるのか?)。時間と燃料が惜しいので先を急ぐ。この時点で既に14時。


三叉路をそのまま進むとほどなく県道34号に降りていく。手前の建物はトイレ(だったかな?)


三叉路から西へは林道が1本、好奇心にそそられてこちらは入ってみることにする。車が停まっているが、金剛堂山の登山者かもしれない。


林道の方は、途中にある電波中継所を過ぎてしばらく行ったところ、林道のほぼ半ばで工事中、通行止め(36.34637, 137.00533)。ショベルカーの人に追い返されてしまった。たいていは優しく通してくれるのだが。


Uターンして三叉路へ戻り、更に県道34号目指して降りていく。途中にあった洗い越し。


場所が場所なら観光名所になりそうな岩肌。

岩肌の辺りで走っている道はだいたいこんな感じ。もはやほぼ廃道である。


県道34号と合流。午前中に通行止めをくらった工事個所の西側へ回り込むべく、ほとんど廃道化した道を進む。とても数年前まで車が通っていて、キャンプ場があったとは思えない。しかし、バイクの轍は付いているので、マニアは入っているのだろう。ちなみに写真中央、倒木のところは土砂崩れで盛り上がっている(36.34803, 137.04812)。車は、ジムニーでも無理だろう。そんな道幅は無い。


県境へ到達。今はもう誰も見ることのない立派な標識とヘキサが立っている。

県境のゲートを富山県側から岐阜県側、岐阜県側から富山県側を見たもの。ゲートには鍵がかかっているので、車は通れない。

ゲートから更に東、岐阜県側へ進み、とうとう午前中の工事個所へ到達。やはり親父に睨まれた。朝のバイクだと、気づいたかな?ここに戻ってくるまで3時間40分! 時刻は既に15時である。


おっとり刀で来た道を戻る。廃道をとなった県道34号を、熊に怯えながら(KDXは煩いのでたぶん大丈夫だけど)水無湖へ。県道は水無湖のダム(利賀川ダム)右岸のところで真北に折れているのだが、ここで予想もしなかったゲート!


ダムの方はと見ると、天端にもA型バリケードに通行止めの文字!


また来た道(廃道)を戻るのか、燃料は大丈夫か、いや、スタンドが開いている時間までにたどり着けるのだろうか?とか冷や汗が出てきた。この時点で既に15時半である。とりあえずダム向こう側まで行くと、こちら側のバリケードには注意書きがぶら下がっている。


「利賀(百瀬)方面、岐阜県方面へは行けません」とある。ということは、これは白川方面から来た車への注意書きで、そちらからはここまで通行可能、ということではないか?ならば、と当初計かっく通りに県道34号を北上、牛首林道北端から下って白川に抜けることにする。

ダム前のゲートを抜け(KDXなら何とか)、なぜ通行止めになっているのか分からない状態の道を北へ上がる。
が、しかし、話はそんなに甘くは無い。牛首林道との合流点(36.35911, 136.985)で再びゲート。写真左、通行止め標識の後ろにKDXが見えている。撮影点が牛首林道との合流点、写真右側が牛首林道である。合流の数メートル手前でゲートとは、むごい。牛首林道へは落差が2~3mある直滑降なので、KDXでも降りられない。


ゲートの向こう側に釣り人がいたので、少し話を聞いた。曰く、牛首林道は工事中でしばらく(たぶん今年いっぱい)抜けられるかどうかわは分からない。県道34号は常時ゲート閉であり、鍵はダムの管理人が持っている、自分たちが通る時だけ開ける。水無湖のキャンプ場は、数年前に管理人のおじいさんが亡くなったので閉鎖された、とのこと。

止む無く、来た道を戻る。ダムを西へ渡り、そのまま、廃道の中を進んでいく。もういい時間だし、熊が怖い。

廃道を突き進み、ようやく牛首林道との合流点(36.31043, 136.97321)。KDXの向こう側、バリケードの先が牛首林道、画面右が水無湖から来た道である。


合流点にある、林道牛首線の記念碑。


この先、白川までもダートとはいえ、路面状況はやや回復。害獣除けのゲートを一つ抜けて、牛首林道終点、旅の終わり。時刻は16時半を回っている。何とか明るいうちに降りて来れた。やれやれ、である。


この後、荘川で燃料補給(3回目)、日の暮れた山間国道をKDXの頼りないヘッドライトで帰宅。通行止めと時間と、燃料不足(スタンド不足)に悩まされたツーリングだったが、入り残したダートもあるので、またチャレンジしてみたいと思う。

鶉野飛行場跡と紫電改

2020年8月16日

先の大戦中、現在の兵庫県加西市鶉野町に姫路海軍航空隊が置かれた。
元々は、それまで水上機メーカーであった川西航空機(現在の新明和工業)が、陸上機の製造を始めるにあたり造成を始めた滑走路であるが、それを帝国海軍が利用したのである。鶉野、としたのは川西航空機が同じ兵庫県神戸市(現)に工場を持つため、近隣で適切な場所を探した結果だろう。

川西航空機はここで局地戦闘機紫電、及び紫電改の生産を行うのだが、一方で海軍は艦上攻撃機の訓練部隊を置いた。昭和18年頃のことであり、おりしも搭乗員の不足により練習生が大量に採用された時代である。

経緯はそういったことであるが、結果として、鶉野地区には滑走路跡に加えて付帯する施設が遺構として残った。加西市は、それらを観光、と言っては語弊があるが、とりもなおさず地域の活性化のために利用しようとし、それなりの予算を組んで遺構を整備し、加えてこの地で生産された紫電改の実大模型まで作ってしまった。今回の旅は、それらの見学の旅である。

そもそも、紫電改の実大模型が公開されたのは1年ほど前である。行く気になれば何とか日帰りの距離だが、せっかくなので実大模型だけではなく周辺の遺構もゆっくり見学したい。それに公開日は第一及び第三日曜日と限られているので、何だかんだで延び延びになっていたのである。

鶉野見学の起点は、北条鉄道法華口駅。お供はスイフトである。北条鉄道は小野市の粟生と加西市の北条町を結ぶ第三セクターである。ミニ三重塔は、近隣の国宝の模造品らしい。


ルートは、ここを起点に北条町駅まで概ね北上。各々の遺構の位置の詳細は、加西市の観光案内を参照。

最初にやってきたのは倉庫わきの弾薬庫。解説板は爆弾庫、となっているが、弾薬庫の方がよいと思う。入り口には鉄柵があり、中には入れない。意外とこじんまりとしているので、格納されていたのは機銃弾、小銃、小銃弾程度の大きさのものかもしれない。800kg(海軍では80番といった)爆弾はそう数が入らないし、魚雷に至ってはもっと怪しい。もっとも、少量ずつ分散していたのかもしれないが。


駅から航空隊正門へ向かう道は右手が高くなっていて、所々に防空壕が口を開けている。駅から隊へ帰る途中、退避の必要が生じたときに使ったのだそうだ。素掘りのものとコンクリート製のものが混在している。


航空隊正門へ向かう道はこのように整備されている。スイフトの右側が高くなった土手で、防空壕が口を開けているところだ。左手は崖。


航空隊の正門、門柱と衛兵詰所。もちろん全て復元。少し躊躇したが、どうやらこのまま車で抜けてもかまわないらしい。


正門の位置から東側を望む。もとは隊舎などがあった位置だと思う。今は神戸大学農学部の実験農場になっている。建物がないので、平坦な土地であることがよくわかる。


ちょっとだけ離れた、池のふちにある対空機銃座跡。解説板からここにあったのは25mm連装機銃、とあるので制式名称「九六式二十五粍機銃」があったのだろう。鶉野の戦跡全般に言えることだが、紫電改関連を除き、少し調べればわかることに対しても非常に考証が甘い。


巨大防空壕、と銘打った地下式の発電機室。中の見学は事前予約制。もちろん予約はしていないので、外から見るだけ。


防空壕を一つ過ぎた後、民家の前にある地下戦闘指揮所跡。ここも中の見学は事前予約制で、しっかり施錠してあった。


さて、そろそろ滑走路跡へ向かう。
鶉野飛行場は、googleマップで見る限り40°-220°方向を向いている。滑走路跡そのものは北端の紫電改倉庫を除いて立ち入り禁止、西側に滑走路に沿った長い直線道路があり、その中ほどに記念碑があった。


そしてこれが滑走路跡北端の紫電改倉庫。紫電改がここから出てくるのは第一及び第三日曜日のみなのである。


冒頭で紫電改を製造した川西航空機は元々水上機メーカーだったと書いたが、紫電改も元をただせば川西が設計した水上戦闘機強風である。大雑把に言うと、水上機である強風からフロートを取り去り脚を追加し、エンジンを1500馬力級の火星から2000馬力級の誉へ換装して紫電という戦闘機を作り上げた。その紫電から、主翼を低翼(強風/紫電は中翼)とし、細部の設計を見直したのが紫電「改」(紫電二一型)である。終戦までに数百機が生産され、最も(そして唯一)有名なのは四国の松山基地に展開した343航空隊である。実大模型は、343航空隊の戦闘第301飛行隊を再現している。それにしてもよくできていると思うし、さすがは2000馬力級の戦闘機である。靖国神社にもある零戦とは、迫力が違う。


滑走路跡を離れて、紫電改倉庫の東隣には鶉野飛行場資料館がある。内部は撮影禁止なので写真は無い。展示は鶉野飛行場にまつわる雑多な細かい物だったが、ボランティアの方々が熱い解説を聞かせてくれた。


資料館を離れて北条町駅へ向かう途中にあった対空砲陣地跡。展示してあるのは九六式二十五粍対空機銃の三連装、勿論レプリカである。


対空砲陣地跡の手前に展示してあったSNJ。戦後、海上自衛隊で練習機として使われていたもので、鶉野飛行場とは縁も縁も無い。塗装だけは、旧海軍に似せて塗ってある。


次は最後の目的地、北条町駅前のアスティアかさいへ向かう。アスティアかさいには加西市のスペースもあり、そこで紫電改のコックピットを展示しているのである(勿論レプリカ)。この日はプレスリリースの日であったようで、予定時刻よりしばし待たされた後、入場。コックピットは、しばらくここで展示された後、機体と同じ紫電改倉庫での展示となるようだ。
コックピット右側の切り欠きは、実物にはない。計器盤をよく見えるようにするためか、座席に入りやすくするためかに設けられた切り欠きだろう。この部分も別体できちんと作ってあった。


さて、これで鶉野飛行場跡と紫電改にまつわる旅は終りである。全体的に事前予約が無いと見学できない、考証の甘い部分があると思われるものの、紫電改自体はよくできている。可能なら、本機の実大模型のコックピットに海軍搭乗員のコスプレで座りたいくらいだ(できるらしいが)。以前、長野松代の大本営跡(地下壕。実際には使われなかったが)へ行ったとき、ボランティアの解説員が史跡とは関係のない話を延々と(恐らく元教員と思われる、で内容は察して欲しい。また、壕の入り口には何故か大きく朝鮮人工員の碑がある)していたのに比べると、そのような所が無い点が好ましく思えた。(史跡は史跡、史実は史実だ。そこに思想は関係ない)
2022年春には、この地で練習機として使用されていた九七式艦上攻撃機の実大模型も展示するらしい。紫電改の仕上がりを見ていると、今から再訪が楽しみで仕方がない。


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