もうどうのすみかBLOG版(続)。ハヤブサとKDXで暮らす日々の綴方。 それから蟲と飛行機と
表現の不自由展に関して、公金の支出先として著しく妥当性を欠くと考えているので、思うところを少しく敷衍しておく。
【公金の支出先はどこまで許されるのか】
公金の支出先としてどこまで許されるのか、あるいは許されないのか、についての明確な定義はない。しかし、一般論として、表現の自由のトレランスがその時々、時代時代によって変化していくことはやむを得ないにしても、公序良俗に反しない範囲、法に触れない範囲であることは当然である。
筆者は、表現の自由について、実態はかなり緩く運用せざるを得ないとしても、公は私よりも狭く適用すべしとの立場である。それは、とりもなおさず行政は政治的中立性を保つべきと考えるからである。
ではなぜ行政が政治的中立性を保たなければいけないのか。その理由は簡単である。国民の思想信条は当然の如く様々であるが、にもかかわらずそれらを等しく扱わなければならないからである。
では今回の場合、公金の支出先として許されるのか。代表的な問題は以下の3点である。
・先々帝とはいえ、未だ歴史とはなっていない昭和天皇の御真影を玩弄する行為。そもそも、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」
・日本国政府が少なくとも日本国大使館或いは領事館の前に置くことを許容していない慰安婦像の展示。
・国難に準じた英霊を愚弄する行為。(このような行為に激怒しない国家などあり得ない。)
これらは、行政の中立性を完全に逸脱していると言わざるを得ない。従って、表現の不自由展を公金にて行うことは反対である。
【公が保証すべき表現の自由について】
一般的な法の考え方は、公権力から国民を守ることにある。従って、公が保証すべき表現の自由とは、「その表現を公権力をもって直接的に妨げない」ことであり、自ら率先して政治的中立性を破り、率先して展示を推進することにあるのではない。推進がいつか許されるものと許されざるものに分けられていくことは、容易に想像できるであろう。ちなみに、この文脈において、「極右」の展示への公金の支出も許されないのは当然である。
では、「直接的に妨げる」とは具体的にどういうことか。次の2つが考えられる。
・展示を公権力によってそれを妨げる。
・展示者と反対の意見を持つ集団の、展示者への違法行為を黙認する。
前者に関しては、国行政は補助金の交付を取りやめたのみである。つまり、展示者が不足分を私費でもって展示を続けることは可能であった訳である(現にカンパの募集があったではないか)。また、現在の我が国において、展示を公権力が妨げるなど、考えられるだろうか。
後者に関しても、そのようなことはあり得ない。現に、会場売店で酢の瓶を割る(詳細不明。たぶん反対派)、展示に反対するプラカードを持った人士への暴力(詳細不明。たぶん賛成派)は、等しく拘束されているではないか。これは、司法警察の正義が政治的なものにはなく、法秩序にあることを如実に表している。
つまり、現状で公はその保証すべき表現の自由への役割を、十分に果たしていると言えるのである。公金を使ってあらゆる表現を保護するとは、こういうことだ。
大村氏は日本国憲法その他の解釈において徹頭徹尾間違っている。
【総括】
あらためて言う。今回展示への公金の支出は不適切であり、許容されるものではない。その理由は前項までで述べた通りである。
最後に、文化庁が決断した補助金不支出に関しては、法手続的妥当性が不明であると思っていることを付け加えておく。
記:かえすがえすも愛知県議会の沈黙は不可解だ。知事の底知れぬ不気味さの深淵を覗いた気がする。
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